古典に学ぶ経営術

古典『孫子』軍形篇に学ぶ、現代ビジネスでの「勝てる態勢」の作り方

Tags: 孫子, 軍形篇, 戦略, 競争優位性, 組織能力, 基盤構築

現代ビジネス環境は、常に変化し、予期せぬ競争や課題に直面するVUCA時代とも称されます。このような状況下で、企業や組織が持続的に成長し、競争に打ち勝つためには、表面的な戦術や一時的な成功だけでなく、より本質的な「強さ」を内包する基盤、すなわち「勝てる態勢」をいかに構築するかが問われます。

この「勝てる態勢」という概念を考える上で、およそ二千五百年前の古典『孫子』の「軍形篇」が非常に示唆に富んでいます。軍形篇は、戦いの「形」すなわち態勢や実力について論じており、いかにして不敗の態勢を作り上げるかに重点を置いています。

『孫子』軍形篇に説かれる「不敗の態勢」

軍形篇の中心的な思想は、「勝つべくして勝つ」という考え方です。孫子は言います。

昔の善く戦う者は、先ず勝つべからざるを為し、以て敵の勝つべきを待つ。 勝利は識るべくして為すべからず。 (現代語訳:昔の戦上手は、まず自らを絶対に負けない態勢にしておき、その上で敵が勝てる隙を見せるのを待った。勝利の態勢は見て取ることができるが、その勝利そのものを強制的に作り出すことはできない。)

ここでの「勝つべからざるを為す」とは、自らを極めて強固にし、他者が容易に打ち破ることのできない状態を作り出すことを意味します。それは、単に兵力や物量を揃えるだけでなく、規律、組織力、情報、地形の利用、士気の高さなど、様々な要素が組み合わさった総合的な「形(態勢)」のことです。そして、この不敗の態勢が整って初めて、敵の隙を捉え、勝利を収める機会を最大限に活かすことができると説いているのです。

また、軍形篇には以下の記述もあります。

彼は勝つべからざるなりとは、吾が為す所なり。彼に勝つべきとは、敵の有る所なり。 故に善く戦う者は、不敗の地に立ちて、敵の敗を失わざるなり。 (現代語訳:敵に勝たれないようにするのは、こちら自身の努力次第である。敵に勝つ機会があるかどうかは、敵の状況次第である。ゆえに戦上手は、自らは決して負けない態勢に立ち、敵が見せる敗北の隙を見逃さないのである。)

これは、自らの強さ(不敗の態勢)は自らの手で作るものであるのに対し、敵を打ち破る機会は相手に依存するという洞察です。したがって、戦いの本質は、まず自らの「形」を完璧に整えることにあると孫子は説いているのです。

現代ビジネスにおける「勝てる態勢」の構築

この軍形篇の思想は、現代ビジネスにおける「持続的競争優位性」や「強固な組織基盤」の構築にそのまま通じます。現代の市場競争は、単一の戦術やプロダクトの優位性だけでは長く続きません。常に模倣や変化のリスクに晒されています。このような環境下で持続的に成功するためには、企業が自らを「不敗の地」に置くような、揺るぎない強さを内部に構築する必要があります。

現代ビジネスにおける「勝てる態勢」を構成する要素は多岐にわたります。

  1. 強固な財務基盤: 研究開発、設備投資、人材育成、M&Aなど、将来への投資を可能にする健全な財務状況は、外部環境の変化や競争圧力に耐えうる最も基本的な体力です。
  2. 卓越したオペレーション能力: コスト効率、品質管理、生産性、サプライチェーンマネジメントなど、日々の業務遂行能力の高さは、競合に対する実質的なアドバンテージとなります。これは模倣が難しく、組織に深く根ざした能力です。
  3. 独自の技術・ブランド・知財: 模倣困難性の高い技術、顧客からの信頼が厚いブランド、排他的な知財などは、強力な参入障壁となり、「勝たれざる」態勢を築きます。
  4. 優秀な人材と組織文化: 変化に対応できる学習能力の高い人材、強固なビジョンに基づいた一体感のある組織文化、適切な評価・育成システムなどは、組織全体の機動力と粘り強さを生み出します。
  5. 顧客基盤とデータ活用能力: 顧客との強固な関係性や、蓄積されたデータを活用して顧客ニーズを深く理解し、迅速に対応する能力は、市場における位置を不動のものにします。
  6. リスク管理能力: 市場変動、技術革新、法規制変更など、様々なリスクを予測し、適切に対応する体制は、予期せぬ事態による打撃を最小限に抑え、「不敗」を守る上で不可欠です。

これらの要素は、特定の市場機会を捉えるための戦術(敵の勝つべきを待つ、敵の有る所を捉える)とは異なり、企業内部の筋肉や骨格にあたる部分です。軍形篇の教えの通り、まず自らの「形」を整えることに注力することで、どのような環境においても競争優位性を保ち、変化の機会を捉えやすくなります。

現代の戦略論においても、企業の競争優位性は、市場の魅力度だけでなく、その企業が持つ独自の資源や能力(Resource and Capabilities)に依存するという「資源ベースの視点(Resource-Based View, RBV)」などが提唱されています。VRIOフレームワーク(Value, Rarity, Imitability, Organization)などは、企業が持つ資源や能力が競争優位性の源泉となりうるかを評価するためのツールですが、これはまさに孫子の説く「勝つべからざるを為す」現代的な分析と言えるでしょう。企業が持つ資源や能力が価値があり(V)、希少で(R)、模倣困難であり(I)、かつそれが組織によって適切に活用される体制がある(O)ならば、それは持続的な競争優位性の基盤となり、まさしく「不敗の態勢」に近い状態を生み出すと考えられます。

事例に見る「勝てる態勢」の力

歴史上、あるいは現代ビジネスにおいても、「勝てる態勢」の構築に成功した事例は多数存在します。

例えば、古代ローマ軍団はその規律、組織力、兵站(サプライチェーン)の整備、工兵による陣地構築能力といった圧倒的な「態勢」によって、戦場の地形や敵の戦術に左右されにくい強固な基盤を持ち、広大な版図を維持しました。彼らは単に強い兵士を集めただけでなく、負けないための組織的な「形」を作り上げていたのです。

現代ビジネスにおいては、オペレーションエクセレンスを追求し続けることで圧倒的なコスト競争力や品質を築いた製造業の例、あるいは強力なブランド力と顧客基盤によって市場での確固たる地位を確立した消費財メーカーなどが挙げられます。これらの企業は、短期的なトレンド追いや競合の動きに一喜一憂するのではなく、自社の内部的な「強さ」を磨き上げることに継続的に投資し、「不敗の態勢」に近い状態を作り上げています。アップル社の製品デザイン、エコシステム、ブランド力、あるいはトヨタ生産方式に代表されるトヨタのオペレーション能力などは、模倣が極めて困難であり、それ自体が強力な「勝てる態勢」を形成していると言えるでしょう。

実践への示唆

軍形篇の教えを現代ビジネスに活かすためには、以下の点を意識することが重要です。

  1. 自社の「形」の徹底的な分析: 自社の強み、弱み、内部的な能力を客観的に評価します。何が自社を「勝たれざる」存在にしているのか、あるいは何がその妨げになっているのかを見極めます。財務、オペレーション、技術、人材、ブランド、顧客基盤など、多角的な視点から評価を行います。
  2. 「不敗の態勢」の定義と目標設定: 自社にとっての「勝てる態勢」とはどのような状態かを具体的に定義し、その実現に向けた長期的な目標を設定します。単なる売上目標だけでなく、組織能力、技術力、ブランド力といった内部的な強さの指標を含めることが重要です。
  3. 内部能力の継続的な強化: 定義した「勝てる態勢」に向けて、内部能力の強化に継続的に投資します。研究開発、人材育成、システム構築、組織文化の醸成など、一朝一夕には実現できない基盤構築に焦点を当てます。
  4. 外部環境との整合性の確認: 内部の態勢を強化すると同時に、それが外部環境の変化や顧客ニーズと整合しているかを確認します。強固な態勢も、それが市場から求められる「形」でなければ意味をなしません。外部の変化を捉えつつ、自社の態勢を適応させていく柔軟性も必要です。
  5. 戦術の実行は「態勢」があってこそ: 短期的な戦術や市場機会の追求も重要ですが、それはあくまで強固な「態勢」という土台があって初めて効果を発揮することを理解します。「不敗の地に立つ」努力なくして、一時的な勝利はあっても持続的な成功は難しいでしょう。

結論

孫子の軍形篇は、「勝つこと」そのものよりも、いかにして「負けない態勢」を作り上げるかという、より本質的な戦略の重要性を説いています。これは現代ビジネスにおいても極めて重要な示唆を与えます。変化の激しい時代だからこそ、外部の機会や競合の動きに翻弄されるだけでなく、自社の内部に揺るぎない「勝てる態勢」を築くことに注力すべきです。

強固な財務、卓越したオペレーション、独自の技術やブランド、優秀な人材と組織文化といった内部的な力こそが、持続的な競争優位性の源泉となり、いかなる市場環境においても「不敗の地」に立ち、勝利の機会を確実に掴むための基盤となります。古典の知恵に学び、自社の「形」を磨き上げる不断の努力こそが、現代ビジネスにおける成功への王道と言えるのではないでしょうか。