孫子の「避実撃虚」に学ぶ、現代ビジネスにおける戦略的ポジショニング
はじめに：競争優位を築くための古今の知恵
現代ビジネスは、技術の進化、市場のグローバル化、顧客ニーズの多様化などにより、かつてないほど競争が激化しています。このような環境下で持続的な成長を実現するためには、単にリソースを投入するだけでなく、いかにして競合に対して有利な立ち位置を築くか、すなわち戦略的なポジショニングが不可欠となります。
この戦略的思考の根源は、遠く古代の兵法にも見出すことができます。特に、孫子の兵法に説かれる「避実撃虚」（実を避けて虚を撃つ）という原則は、現代ビジネスにおける競争戦略の本質を鋭く捉えていると言えるでしょう。本稿では、この「避実撃虚」の概念を掘り下げ、それが現代ビジネスの文脈でどのように理解され、戦略的ポジショニングにどう応用できるのかを考察します。
古典「孫子」に見る「避実撃虚」の思想
「避実撃虚」という言葉は、孫子の「虚実篇」に登場する思想です。ここでは、戦場においていかにして主導権を握り、有利な状況を作り出すかが説かれています。
孫子は以下のように述べています。
夫れ戦の形は水に象る。水の形は高きを避けて下きに趨く。兵の形は実を避けて虚を撃つ。 （孫子 虚実篇）
これは、「戦いの態勢は水の流れに似ている。水が高いところを避けて低いところへ流れるように、兵は敵の充実している『実』の部分を避けて、手薄な『虚』の部分を攻撃する」という意味です。「実」とは敵の兵力や防御が充実している場所や時間、あるいは敵の強固な体制そのものを指します。一方、「虚」とは敵の兵力が分散していたり、防御が手薄であったりする場所や時間、あるいは敵の弱点や準備不足な状態を指します。
孫子は、「実」を避け、「虚」を衝くことこそが、自軍のリソースを最大限に活かし、最小限の損害で勝利を得るための鍵であると説いているのです。これは、正面から敵の最も強い部分にぶつかる無謀さを戒め、戦うべき場所と時を選び抜く戦略の重要性を示唆しています。
現代ビジネスにおける「避実撃虚」の適用
この「避実撃虚」の原則は、現代ビジネスにおける競争戦略、特に戦略的ポジショニングの考え方と深く共鳴します。
現代ビジネスにおける「実」と「虚」は、以下のように捉えることができます。
- 競合の「実」:
- 競合が既に確立している強固な市場シェア、ブランド力
- 大規模な販売網、生産設備
- 強固な顧客基盤、囲い込み戦略
- 特定の技術やノウハウにおける圧倒的な優位性
- 既存事業が生み出す安定的な収益源、資本力
- 競合や市場の「虚」:
- 競合が十分にカバーできていない顧客セグメント
- 既存の製品やサービスでは満たされていない潜在的なニーズ（ブルーオーシャン）
- 新しい技術やビジネスモデルが生み出す未開拓の機会
- 競合の組織構造や意思決定プロセスにおける弱点や硬直性
- 市場の変化や規制に対して競合が迅速に対応できていない領域
現代ビジネスにおいて「避実撃虚」を実践するとは、競合が強固な「実」を築いている既存の市場やセグメントでの正面衝突を避け、競合や市場に存在する「虚」、すなわち手薄な部分や未開拓の機会を特定し、そこに自社のリソースを集中してポジショニングを確立することです。
これは、競争戦略論における「差別化戦略」や「集中戦略」の一部として理解できます。競合と同じ土俵で戦うのではなく、自社にとって有利な独自の土俵（ポジション）を見つけ出す、あるいは作り出すアプローチと言えるでしょう。特に、限られたリソースを持つスタートアップや新規事業においては、大手企業の「実」に真正面から挑むことはリスクが高く、「虚」を見つけて一気に攻め込む戦略が重要になります。
事例に学ぶ「避実撃虚」
歴史や現代ビジネスには、「避実撃虚」を成功させた事例が数多く存在します。
歴史的事例：織田信長の桶狭間の戦い
戦国時代の桶狭間の戦いは、「避実撃虚」の古典的な例と見ることができます。今川義元率いる2万5千ともいわれる大軍に対し、織田信長は3千に満たない兵力でした。正面からぶつかれば勝算は極めて低い「実」の状況です。信長は、今川軍の強固な本隊との衝突を避け、油断して休息していた今川義元本陣という「虚」を一気に衝く奇襲戦術を選択し、見事な勝利を収めました。これは、敵の「実」を避け、敵の「虚」を正確に見抜き、そこに全力を集中させた戦略の成功と言えます。
現代ビジネス事例：初期のAirbnb
初期のAirbnbは、ホテル業界という巨大な「実」に正面から挑むのではなく、「避実撃虚」のアプローチをとりました。既存ホテルが提供するのは画一的な宿泊体験であり、空き部屋を持つ個人が旅行者に部屋を貸すというニーズは十分に満たされていませんでした。Airbnbは、この「個人間のユニークな宿泊体験」というホテル業界の「虚」の部分に焦点を当て、テクノロジーを活用してプラットフォームを構築しました。これにより、既存ホテルとは異なる新しい市場を創造し、独自のポジショニングを確立しました。
現代ビジネス事例：地方の専門メーカー
特定のニッチな産業機械や部品分野で高いシェアを持つ地方の中小専門メーカーも、「避実撃虚」の成功例と言えます。彼らは、大手企業が参入しない、あるいは参入しても収益性が低いと判断するような、特定の専門性が求められる「虚」の部分に自社の技術力やノウハウを集中させます。これにより、その分野では大手をも凌駕する技術的・市場的な「実」を築き、強固なポジショニングを確立しています。
実践への示唆：自社の「虚」と市場の「虚」を見つける
「避実撃虚」の原則を自社のビジネスに活かすためには、以下の点を意識することが重要です。
- 自社と競合の徹底的な分析: 自社の強みと弱み、そして競合の「実」（強みや牙城）と「虚」（弱みや手薄な部分）を正確に把握することから始まります。ポーターのファイブフォース分析やVRIO分析などが役立つでしょう。
- 市場の「虚」の探索: 既存の市場構造にとらわれず、満たされていない顧客ニーズ、新しい技術が生み出す機会、規制緩和の動きなど、未開拓の「虚」がないかを探索します。顧客インサイトの深化や、市場調査、技術トレンドの分析が重要です。
- 自社の「実」を活かせる「虚」の選定: 見つけた市場の「虚」すべてを追うのではなく、自社のリソースや強み（「実」）を最大限に活かせる、すなわち「虚」を攻めるのに最も適した自社の「実」を見つけ、両者が噛み合う領域を選定します。
- 集中的なリソース投入: 選定した「虚」の領域に対し、リソースを分散させることなく集中的に投入し、一気に独自のポジションを確立することを目指します。
「虚」は常に変化します。市場や競合の動向を継続的に観察し、新たな「虚」を見つけ出し、あるいは既に確立した「実」が「虚」となりつつないかを見極めることが、持続的な競争優位を保つためには不可欠です。
結論：普遍的な競争戦略の原則
孫子の「避実撃虚」という原則は、単なる戦術論を超え、あらゆる競争環境における普遍的な戦略の本質を示しています。現代ビジネスにおいても、競合の強みと正面からぶつかるのではなく、未開拓の領域や手薄な部分を見つけ出し、そこに自社の強みを集中させる戦略的ポジショニングこそが、限られたリソースの中で持続的な競争優位を築く鍵となります。
古典の知恵は、表面的な技術や流行に左右されない、より深いレベルでの戦略的思考を私たちに提供してくれます。「避実撃虚」の思想を深く理解し、自社の置かれた状況に照らし合わせて応用することで、現代ビジネスの激しい競争を勝ち抜くための確かな道筋を見出すことができるでしょう。