古典『孫子』火攻篇の「非利不動、非得不用、非危不戦」に学ぶ、現代ビジネスにおける戦略的静止と意思決定の原則
はじめに
現代ビジネス環境は常に変化し、競争は激化しています。このような状況下では、「迅速な行動」「果敢な投資」「積極的な拡大」といった動的な戦略が重視されがちです。しかし、時に最も賢明な戦略は「動かないこと」や「手を出さないこと」かもしれません。孫子の兵法、特に「火攻篇」には、この戦略的な「静止」の重要性を示唆する原則が説かれています。本稿では、孫子の火攻篇に登場する「非利不動、非得不用、非危不戦」という一節に焦点を当て、これが現代ビジネスにおける意思決定、特に投資判断やリソース配分、リスク管理においていかに有効な指針となるかを解説します。
孫子火攻篇に説かれる「非利不動、非得不用、非危不戦」の原則
孫子の火攻篇は、敵を焼き払うという極めて破壊的な戦術について論じる章ですが、その中で最も重要な原則の一つとして、軽率な行動への戒めが説かれています。
孫子は次のように述べています。
非利不動、非得不用、非危不戦。 主は怒りを以て軍を興すべからず。将は鬱を以て戦を致すべからず。 利に合すれば乃ち動き、利に合せざれば乃ち止まる。 (火攻篇)
この一節は、行動を起こすための明確な基準を示しています。
- 非利不動(利にあらざれば動かず): 明確な利益が見込めない限り、軽率に行動を起こすべきではない。
- 非得不用(得にあらざれば用いず): 明確な成果や達成が見込めないことには、労力や資源を費やすべきではない。
- 非危不戦(危にあらざれば戦わず): 自身の存続や安全が明確に脅かされる危険がない限り、無益な戦いを仕掛けるべきではない。
そして、感情(怒りや鬱憤)を根拠にした意思決定を戒め、行動の唯一の基準が「利に合するか否か」であることを強調しています。これは、単なる消極主義ではなく、極めて論理的かつ合理的な判断に基づいた戦略的な姿勢を示唆しているのです。
現代ビジネスへの適用:戦略的静止と意思決定
この孫子の原則は、現代ビジネスにおける様々な意思決定局面に応用可能です。
1. 投資判断(非利不動)
新たな事業への参入、M&A、大規模な設備投資など、ビジネスにおける重要な投資判断は、常に不確実性を伴います。「非利不動」の原則は、明確な収益性や戦略的メリットが定量的に、かつ論理的に説明できない限り、安易に投資に踏み切るべきではないと示唆します。
現代ビジネスでは、DCF法(Discounted Cash Flow法)やNPV法(Net Present Value法)といった投資評価手法がありますが、これらの手法で「利」が十分に証明されない、あるいはリスクが高すぎて不確実性が大きい場合は、たとえ市場の流行や競合の動向に煽られても、動かないという判断が賢明である場合があります。衝動的な投資は、しばしばリソースの浪費や失敗につながります。
2. リソース配分(非得不用)
人材、資金、時間といった有限なリソースをどのように配分するかは、企業の競争力を左右します。「非得不用」は、明確な成果や目標達成への貢献が見込めないプロジェクトや活動には、貴重なリソースを割くべきではないという教訓を与えます。
これは、事業ポートフォリオ管理における不採算事業からの撤退判断や、研究開発における有望性の低いテーマからの撤退基準設定、あるいはマーケティング活動における効果測定に基づいた予算配分などに応用できます。限られたリソースを最も成果に結びつく可能性が高い分野に集中させる「選択と集中」は、「非得不用」の原則の現代的実践と言えるでしょう。
3. リスク管理と競争回避(非危不戦)
ビジネスにおける「戦い」とは、競合との激しいシェア争いや、市場での消耗戦を指す場合があります。「非危不戦」は、自社の存続や優位性が脅かされるような過度なリスクを冒してまで、無益な競争や勝算の低い「戦い」に挑むべきではないと説きます。
これは、価格競争への不参加、ニッチ市場での確固たるポジショニング確立、あるいは自社の強みが活かせないレッドオーシャンへの参入回避といった戦略に繋がります。無益な消耗戦を避け、自社にとって有利な状況が整うまで待つ、あるいは別の戦場を選ぶという判断は、長期的な視点で見れば生存確率を高める賢明な戦略となり得ます。
事例にみる戦略的静止の重要性
歴史上、この原則に従い成功を収めた例は少なくありません。
例えば、戦国時代の武将である毛利元就は、「百万一心」の精神で領国の安定と内政整備に注力し、無益な外征を避けました。これにより国力を蓄え、後に中国地方最大の勢力へと発展させる基礎を築きました。これはまさに「非利不動、非得不用」の実践と言えるでしょう。
現代ビジネスにおいても、急成長する市場や話題の技術に安易に飛びつかず、自社のコアコンピタンスを強化することに集中し、市場の変化を慎重に見極めてから動くことで、持続的な成長を遂げた企業の事例は存在します。無理な多角化や拡大路線ではなく、足元を固める「戦略的静止」が功を奏したケースです。
実践への示唆
孫子の「非利不動、非得不用、非危不戦」の原則を自身のビジネス意思決定に活かすためには、以下の点を意識することが重要です。
- 感情に流されない冷静な分析: 市場の熱狂や競合への対抗心といった感情ではなく、定量的なデータと論理に基づいた客観的な状況判断を徹底します。
- 明確な基準の設定: 投資、リソース配分、競争への参加基準などを事前に明確に設定しておき、その基準を満たさない場合は「動かない」という選択肢を当たり前のものとします。撤退基準を事前に定めておくことも、無益なリソース浪費を防ぐ上で有効です。
- 機会費用の考慮: ある行動を取ることで失う、他のより有望な機会(機会費用)を常に意識し、本当にその行動が最善の選択かを問い直します。
- 待つことの価値の認識: すべての機会に飛びつく必要はありません。有利な状況が整うまで忍耐強く待つこと自体が、一つの強力な戦略であることを理解します。
結論
孫子火攻篇の「非利不動、非得不用、非危不戦」という原則は、現代ビジネスにおける過剰な行動主義への対抗軸として、非常に重要な示唆を与えてくれます。常に動き続けることが求められる現代において、立ち止まり、見極め、適切な時まで「静止」するという戦略的な判断は、リソースの最適化、リスクの回避、そして持続的な競争優位性の確立に不可欠です。古典の知恵は、時を超えて私たちの意思決定に深い洞察を与え続けています。