孫子の『虚実篇』に学ぶ、現代ビジネスにおける戦略的集中と分散
導入:絶えず変化するビジネス環境における「形」の操作
現代のビジネス環境は、技術革新、市場の変動、予期せぬパンデミックなど、常に変化し続けています。このような不確実性の高い状況下で、企業が競争優位を確立し、持続的な成長を遂げるためには、経営資源をどのように配分し、競合に対してどのように立ち振る舞うかが極めて重要になります。
孫子の兵法には、この「形」の操作、すなわち自らの有利な状況を作り出し、相手を不利な状況に追い込むための深い洞察が示されています。「虚実篇」は特に、敵と味方の強弱を見極め、力を集中すべき点と分散すべき点を判断し、主導権を握るための戦略を論じています。本稿では、孫子の『虚実篇』における主要な概念を解説し、それが現代ビジネスにおける戦略的な集中と分散、そして競争優位の構築にどのように応用できるかを探求します。
古典の概念解説:孫子『虚実篇』にみる主導権の原則
『虚実篇』の核心は、「致人而不致於人」(人をして至らしむるも、人に致されざるなり)という考え方にあります。これは、自ら主導権を握り、相手を自らの望む場所や状況へ誘導するが、決して相手の思うがままにならないことの重要性を示しています。
孫子はこの原則を達成するための具体的な方法を示しています。
善く敵を致す者は、之に形す可からざるを形し、敵を内にして其の実を見しむ。 敵を内にして其の実を見しむるは、我れ専一なることなり。 - 孫子 虚実篇 (一般的な訳文に基づく)
これは、自らの真の意図や「実」(強みや本隊)を相手に見破られないように「形」(見せかけ)を作り出し、相手を誘い込むことを説いています。そして、相手が分散したり、意図しない場所へ誘導されたりする中で、自らは力を集中し、相手の「虚」(弱点や手薄な場所)を攻撃する好機を作り出すのです。
また、虚実を見極めることについても述べています。
我れ衆にして敵寡きときは、寡きを約するなり。 夫れ戦う者は、形なきを以って極む。 - 孫子 虚実篇 (一般的な訳文に基づく)
自軍の数が多いときに敵の少ない部分を攻めるのは当然ですが、真に戦いに巧みな者は「形なき」、つまり事前に予測不可能な、見破られない「形」で戦うことを極意とします。これは、自らの強み(実)を隠し、相手の弱み(虚)を突くための準備を周到に行うこと、そして相手には自らの意図を読ませない柔軟性を持つことを意味します。
現代ビジネスへの適用:戦略的集中と分散
孫子の『虚実篇』における「虚」と「実」の概念は、現代ビジネスにおける戦略的意思決定、特に経営資源の配分戦略に深く関連しています。
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「実」の集中:コアコンピタンスへのリソース投入
- 企業が持つ独自の強み(コアコンピタンス)、すなわち技術力、ブランド力、顧客基盤などに「実」を集中させることは、競争優位を確立する上で不可欠です。孫子が「我れ専一なることなり」と述べたように、自社の真の力を一点に集中させることで、競合に対して圧倒的な優位性を築くことができます。
- これは、事業ポートフォリオ戦略(PPMなど)において、将来性があり、自社の強みが活かせる事業領域に重点的に投資する考え方と共通します。
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「虚」の創出:競合のリソース分散を誘う
- 市場における競合の注意を、自社の本命ではない領域や見せかけの活動に引きつけることで、競合のリソースを分散させ、「虚」を作り出すことができます。
- 例えば、新製品の発表を匂わせることで競合に類似製品開発を急がせリソースを分散させる、特定のニッチ市場で先行して話題を作り競合の関心を引きつける、といったマーケティングや広報戦略に応用可能です。これは「致人而不致於人」、すなわち相手を誘導する戦略です。
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状況に応じた「虚」と「実」の転換
- 孫子は「夫れ戦う者は、形なきを以って極む」と述べましたが、これは自社の「実」を固定せず、状況に応じて柔軟に「虚」と「実」を切り替える能力の重要性を示唆しています。
- 特定の市場でのシェアを拡大するために一時的に価格競争を仕掛け(価格競争力の「実」を見せる)、競合が疲弊したところで高品質戦略へ転換する、といった戦術はこれに当たります。また、研究開発段階では秘匿性を高めることで競合の「虚」を作り、発表段階で一気に「実」を公開するといった手法も考えられます。
これらの考え方は、単に自社の強みを活かすだけでなく、競合や市場全体のダイナミクスを理解し、自らが有利な「形」を能動的に作り出すための戦略的なフレームワークを提供します。
事例紹介:集中と分散が勝敗を分けた歴史・ビジネスの局面
歴史上の事例としては、アレクサンドロス大王の戦術が挙げられます。彼は常に自軍の最強部隊である重装騎兵「ヘタイロイ」を一点に集中させ、敵陣の「実」である中央や指揮官を直接攻撃しました。他の部隊は敵を拘束したり陽動したりする「虚」の役割を担い、全体の「形」を操作して、最終的に一点集中の「実」で決定的な勝利を収めました。
現代ビジネスにおいては、Appleの戦略が参考になります。かつて多様な製品ラインを展開していた同社は、スティーブ・ジョブズ復帰後、iMacやiPodなど特定の製品群にリソースを集中させ、それ以外の事業を大幅に整理しました。これはまさに自社の「実」(デザイン、使いやすさ、ブランド力)が活かせる領域への徹底的な集中であり、これにより今日の成功基盤を築きました。その後、iPodを基盤にiPhone、iPadと展開を広げ、現在はサービス事業にも「実」を拡大させていますが、その根幹には常に「何に集中するか」という明確な意志が見られます。
また、特定のニッチ市場で圧倒的なシェアを占める中小企業の戦略も、「虚実篇」の思想に通じます。大企業が参入しにくい専門性の高い分野や、独自の技術・サービスに特化することで、自社にとっての「実」を最大限に活かし、競合(大企業など)が容易に手を出しにくい「虚」を作り出しています。
実践への示唆:自身のビジネスにおける「虚」と「実」の見極め方
孫子の『虚実篇』を自身のビジネスに応用するためには、まず現在の状況における「虚」と「実」を正確に見極めることから始めます。
- 自社の「実」(強み)の見極め: どのような技術、人材、顧客基盤、ブランド力が自社の競争優位の源泉となっているか。リソースを集中すべき「一点」は何か。
- 自社の「虚」(弱み)の認識: どのような点が競合に劣っているか、リソースが手薄な領域はどこか。ここを突かれないための対策は何か。
- 競合の「実」(強み)の見極め: 競合がどのようなリソース、能力を集中させているか。その本丸はどこか。
- 競合の「虚」(弱み)の認識: 競合が手薄な領域、戦略的に無視している市場、弱点を抱える部分はどこか。ここが自社の「実」を集中して攻めるべきポイントとなり得るか。
- 市場・環境の「虚」と「実」の理解: 市場の成長機会、顧客ニーズの変化(「実」)、規制緩和、技術トレンド(「実」)と、市場の飽和、顧客の無関心、予期せぬリスク(「虚」)など、外部環境の有利・不利な要素を分析します。
これらの分析に基づき、自社の「実」を活かせる領域にリソースを集中させ、競合や市場の「虚」を突く戦略を立案します。同時に、自社の「虚」を補強するか、あるいは「形なき」戦術によって相手に悟らせない工夫も必要です。重要なのは、状況は絶えず変化するため、定期的に「虚」と「実」を見直し、柔軟に戦略を調整していくことです。
結論:変化への適応と主導権確保のための普遍的原則
孫子の『虚実篇』は、単なる戦闘技術の解説に留まらず、限られたリソースの中でいかに最大の効果を上げ、不確実な状況下でも主導権を維持するかという、普遍的な戦略思想を示しています。現代ビジネスにおいても、市場競争は激化し、経営資源は常に有限です。
『虚実篇』の教えは、自社の真の強みを見極めそこに集中投資すること、競合や市場の隙間(虚)を見つけて攻めること、そして何よりも自らが有利な状況を能動的に作り出すことの重要性を再認識させます。絶えず変化する「形」の中で、自らの「実」を隠し、相手の「虚」を突き、主導権を握る。この古典的な知恵は、現代のビジネスパーソンが複雑な課題を解決し、競争を勝ち抜くための深い洞察を与えてくれるでしょう。古典に学び、自身の「虚」と「実」を見極め、戦略的な一歩を踏み出すことが求められています。