古典『孫子』五事の「法」に学ぶ、現代ビジネスにおける組織設計と規律
孫子「五事」における「法」の重要性
『孫子』の「始計篇」において、戦いを始める前に検討すべき要素として「五事七計」が挙げられています。「五事」とは、「道」「天」「地」「将」「法」を指し、これらが戦局を左右する根幹であると説かれています。現代ビジネスにおいても、新たな事業やプロジェクトを立ち上げる際、あるいは既存組織の戦略を見直す際に、これら五つの要素を体系的に検討することは極めて有効です。本稿では、この「五事」の中から「法」に焦点を当て、その概念が現代ビジネスにおける組織設計や規律の確立にいかに応用できるかを論じます。
孫子は「法」について、以下のように述べています。
夫れ、五事とは、一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法。 法とは、曲制、官道、主位なり。 (『孫子』始計篇)
一般的な解釈では、「法」とは「曲制(きょくせい)」「官道(かんどう)」「主位(しゅい)」の三つから構成されるとされています。 * 曲制(きょくせい): 軍隊の編制や組織構造、階層、各種規律やルール。 * 官道(かんどう): 役職ごとの職務権限、責任範囲、指揮命令系統。 * 主位(しゅい): 物資や装備の管理、補給、費用といった物資・財務面に関する制度。
つまり、孫子の言う「法」とは、単なる法律や規則といった表面的なものに留まらず、組織の構造、個々の役割と権限、そしてそれを支える資源管理システムまでをも包含する、組織運営のための基盤全体を指していると解釈できます。戦いにおける規律ある行動、円滑な連携、そして持続的な活動は、この「法」がどれだけ整備されているかにかかっているのです。
現代ビジネスにおける「法」の適用
孫子の説く「法」の概念は、現代ビジネス組織にそのまま適用することが可能です。企業という組織体もまた、明確な目的(事業成功、成長)を達成するために、人、物、情報を効率的に配置し、動かす必要があります。
- 曲制の現代的解釈: 現代ビジネスにおける「曲制」は、組織構造そのもの(事業部制、機能別組織、マトリックス組織など)、各種規定(就業規則、経費規程、情報セキュリティ規程など)、業務プロセスや標準作業手順(SOP)に相当します。これらが明確で、組織の実態に即しているかどうかが、組織の柔軟性や効率性を左右します。また、単にルールがあるだけでなく、それが組織文化として浸透し、構成員が自律的に規律を守る状態こそが、孫子の理想とする「法」が機能している姿と言えるでしょう。
- 官道の現代的解釈: 「官道」は、現代組織における役職や役職に応じた権限と責任、そして組織図に示される指揮命令系統や報告ラインに対応します。誰がどのような意思決定権を持ち、誰に報告し、誰に指示を出すのかが明確であることは、組織内の混乱を防ぎ、迅速な意思決定を可能にします。特に、変化の激しい現代においては、意思決定権限を適切なレベルに委譲する(エンパワーメント)ことも、「官道」を最適化する一つの方法と言えます。
- 主位の現代的解釈: 「主位」は、企業の財務管理、資産管理、サプライチェーンマネジメント、情報システムといった、組織活動を支える基盤となる資源管理システム全体を指します。ヒト・モノ・カネ・情報といった経営資源が適切に配分・管理され、戦略の遂行に必要なリソースが確保できる体制が整っているかどうかが、組織の持続可能性や競争力に直結します。
現代ビジネスにおいては、これらの「法」を統合的に捉え、「ガバナンス」という概念で語られることも多いでしょう。健全なガバナンス体制は、明確な組織構造、責任と権限の明確化、そして透明性の高い資源管理によって支えられます。孫子の言う「法」は、まさにこのガバナンスの根幹をなす要素を時代を超えて示唆していると言えます。
事例に見る「法」の機能不全とその影響
歴史上、あるいは現代ビジネスにおいても、「法」の不備が組織の失敗に繋がった事例は数多く存在します。
例えば、歴史的な軍隊において、指揮命令系統が曖昧であったり、部隊間の連携ルールが存在しなかったりした場合、個々の兵士が勇敢であっても、全体としての戦力は著しく低下しました。また、物資の補給計画がずさんであれば、兵站が崩壊し、戦闘の継続は不可能になります。これは現代ビジネスにおける、部門間の連携不足によるプロジェクト失敗や、サプライチェーンの混乱による事業停止といった事態と共通する構造を持っています。
現代企業の事例としては、急速な組織拡大に対して内部規程や業務プロセス(曲制、官道)の整備が追いつかず、不正経理や情報漏洩といったコンプライアンス問題が発生するケースが挙げられます。また、研究開発部門への投資(主位)が不十分であったり、意思決定権限が中央に集中しすぎる(官道の問題)あまり、市場の変化に迅速に対応できず、競争力を失う事例も珍しくありません。これらの問題は、まさに孫子の説く「法」が機能不全を起こしている状態と言えるでしょう。
逆に、「法」が整備され、組織全体に浸透している企業は、強固な企業文化を持ち、環境変化にも柔軟に対応できる回復力(レジリエンス)を備えています。明確な権限委譲と迅速な意思決定プロセスは、イノベーションを促進することにも繋がります。
実践への示唆
孫子の「法」の教えを現代ビジネスに活かすためには、以下の点を自身の組織に照らし合わせて検討することが有効です。
- 組織構造の適性評価: 現在の組織構造(曲制)は、事業戦略の遂行に最適でしょうか?部門間の連携は円滑でしょうか?過去の成功体験に基づいた古い構造になっていないか見直す必要があります。
- 権限と責任の明確化: 各役職・チーム(官道)の権限と責任は明確ですか?意思決定プロセスは迅速かつ適切ですか?不明瞭な点は、組織内の摩擦や非効率性の原因となります。
- 資源管理システムの確認: 経営資源(ヒト・モノ・カネ・情報など)の管理システム(主位)は効率的で透明性が高いでしょうか?必要なリソースがタイムリーに適切な場所に配分される仕組みが整っていますか?
- 規律・ルールの浸透度: 明文化された規程やルールは、組織構成員に理解され、遵守されていますか?単なる「お役所仕事」になっていないか、実態に即しているかを確認し、必要に応じて見直す柔軟性を持つことが重要です。また、ルール遵守が組織文化として根付いているかどうかが、組織全体の規律を左右します。
- 「暗黙の法」への注意: 明文化されていないが組織内に存在する慣習や非公式なルール(暗黙の法)も、「法」の一部として組織の行動に影響を与えます。これらの「暗黙の法」が良い方向に機能しているか、あるいは阻害要因になっていないかを意識的に観察することも重要です。
孫子の「法」は、組織運営の土台となる、目に見えにくいながらも極めて重要な要素を示しています。この土台が強固であればこそ、組織は戦略を実行し、外部環境の変化に対応し、持続的に成長することが可能となるのです。
結論
『孫子』「始計篇」の「五事」における「法」は、単なる規則集ではなく、組織構造、権限と責任、資源管理システムを含む、組織全体の運営基盤を指す普遍的な概念です。現代ビジネスにおいては、この「法」を「組織設計」「規律」「ガバナンス」といった言葉で捉え直し、その整備と維持に継続的に取り組むことが、組織の競争力強化と持続可能な成長に不可欠です。
古典の知恵は、特定の戦術や技術ではなく、組織の本質、人間集団の動かし方といった普遍的な原則を教えてくれます。孫子の「法」の教えは、目まぐるしく変化する現代においても、組織の足元を固めるための重要な指針を与えてくれると言えるでしょう。自身の組織の「法」は、今どのような状態にあるのか。古典に問いかけることで、新たな気づきが得られるはずです。