古典に学ぶ経営術

孫子の『奇正』にみる、現代ビジネスにおける競争戦略とイノベーション

Tags: 孫子, 奇正, 競争戦略, イノベーション, 戦略論

はじめに:普遍的な戦略原則としての『奇正』

孫子の兵法は、二千数百年の時を経てもなお、戦略の本質を説く古典として多くの示唆を与え続けています。その中でも特に、多様な局面に対応するための戦略原則として重要なのが「奇正」の概念です。現代ビジネスにおいても、既存市場での競争優位を確立しつつ、新しい市場や価値を創造するための戦略は不可欠であり、『奇正』の考え方はこの課題に対し、深い洞察を提供します。

本稿では、孫子の『奇正』の概念を解説し、それが現代ビジネスにおける競争戦略とイノベーションにどのように応用できるかを考察します。古典の知恵を通して、複雑化するビジネス環境における戦略的意思決定の質を高めるための示唆を得ることを目指します。

孫子に説かれる『奇正』の概念

孫子は、『勢篇』において次のように述べています。

凡そ戦いは、正を以て合し、奇を以て勝つ。(勢篇第五)

この簡潔な一文は、『奇正』の原則を端的に示しています。「正」とは、正面からの攻撃、定石的な戦術、普遍的な原則などを指します。一方、「奇」とは、側面からの攻撃、変則的な戦術、意表を突く動きなどを指します。戦いを仕掛ける際には「正」をもって当たり、勝利は「奇」によって得る、というのが孫子の基本的な考え方です。

さらに、孫子は『奇正』が互いに転化し、無限に生じうることも説いています。

奇正の変は、勝つべからざるなり。奇正の尽きること、天地の如くにして尽きず。縄水の如くにして絶たず。(勢篇第五)

つまり、『奇正』の関係性は固定的なものではなく、状況に応じて「正」が「奇」に、あるいは「奇」が「正」に転じ、その組み合わせは尽きることがありません。これは、戦略が常に流動的であり、状況に合わせて変化させ続けなければならないことを示唆しています。

現代ビジネスにおける『奇正』の適用

孫子の『奇正』は、現代ビジネスにおける以下のような対立する概念や活動のバランスを理解し、戦略的に組み合わせるためのフレームワークとして応用できます。

  1. 既存事業における競争戦略(正)と新規事業・イノベーション(奇)

    • 正: 既存市場におけるシェア拡大、コスト削減、品質改善など、確立されたルールの中で効率を高める活動。ポーターの競争戦略でいうコストリーダーシップや差別化戦略を、既存のバリューチェーンの中で追求するなどがこれに該当します。
    • 奇: 新しい市場の開拓、既存事業を破壊するような革新的な技術やビジネスモデルの導入、顧客ニーズを再定義するような新しい価値提案。これは、クリステンセンの提唱する破壊的イノベーションや、リーンスタートアップに代表されるような新しいアプローチによる事業創造に相当します。多くの企業は既存事業(正)で収益を上げつつ、将来の成長のために新規事業(奇)に取り組む必要があります。
  2. 定石戦略(正)と変則戦略(奇)

    • 正: 業界の慣習や成功パターンに基づいた、予測可能でリスクの低い戦略。例えば、大手企業が確立されたチャネルを通じて標準的な製品を販売するなどです。
    • 奇: 競合の予測を超えた、意表を突くような戦略。ゲリラマーケティング、ニッチ市場への集中、異業種からの参入によるビジネスモデルの刷新などがこれにあたります。特に、リソースに限りがある中小企業やスタートアップは、「奇」を用いて大企業の「正」に対抗することが有効な場合があります。
  3. 安定(正)と変化(奇)

    • 正: 組織の安定性、既存プロセスの維持、効率性の追求。これは、組織オペレーションの中核を担う要素です。
    • 奇: 組織構造の変革、新しいプロセスの導入、組織文化の再構築など、変化を推進する活動。迅速な環境変化に対応するためには、組織内に「奇」を取り込む柔軟性が不可欠です。

孫子の教えは、「正」だけでは頭打ちになり、「奇」だけではリスクが高すぎると示唆しています。勝利を得るためには、「正」によって安定的な基盤を築きつつ、「奇」によって決定的な優位性を生み出す、両者の巧みな組み合わせと転化が求められます。

事例から学ぶ『奇正』のダイナミズム

歴史上、あるいは現代ビジネスにおいて、『奇正』の原則が機能した事例は数多く存在します。

これらの事例は、『奇正』が単なる戦術レベルの話ではなく、組織全体の戦略的方向性やリソース配分に関わる重要な原則であることを物語っています。

実践への示唆:『奇正』のバランスと転化

孫子の『奇正』の概念を現代ビジネスで活かすためには、以下の点を考慮することが重要です。

  1. 自社の『正』と『奇』を認識する: 自社の強み、得意とする市場、確立されたプロセスなどが「正」の基盤となります。一方で、新たな技術、潜在的な顧客層、競合が手薄な領域などが「奇」を生み出す可能性を秘めています。これらを客観的に分析し、自社の戦略における「正」と「奇」の現状を把握することが第一歩です。
  2. 状況に応じた『奇正』のバランス: 市場環境、競合の動向、自社のリソース状況など、状況に応じて「正」に重点を置くべきか、「奇」の要素を強めるべきかを見極める必要があります。安定期には「正」の強化で効率を高め、変革期には「奇」によって変化に対応する柔軟性が求められます。
  3. 『奇正』の相互転化をデザインする: 現在の「奇」(新規事業や新しい技術)がいずれ「正」(コアビジネスや標準技術)となり、また新たな「奇」が必要になるというサイクルを意識することが重要です。この転化を戦略的にデザインし、組織能力として組み込むことが、持続的な競争優位につながります。両利きの経営のように、既存事業の深化(正)と新規事業の探索(奇)を同時に推進する組織構造や文化を構築することも有効なアプローチです。
  4. 『奇』に伴うリスクを管理する: 「奇」は成功すれば大きな成果をもたらしますが、同時に不確実性やリスクも伴います。新しい試みを行う際には、綿密な計画、テストマーケティング、迅速な軌道修正が可能な体制を整えることが重要です。

結論:『奇正』に学ぶ戦略的二面性

孫子の『奇正』の概念は、現代ビジネスにおける競争戦略とイノベーションという、一見相反する二つの側面の重要性を浮き彫りにします。確立された基盤(正)の上で効率的に活動しつつ、同時に新しい価値創造(奇)のための試みを続けること。そして、その両者が絶えず相互に影響を与え合い、転化していくダイナミズムを理解し、コントロールすることが、VUCA時代のビジネスリーダーには求められています。

古典の知恵は、特定の戦術を教えるだけでなく、普遍的な戦略原則への深い洞察を提供します。『奇正』の原則を自身のビジネスに照らし合わせることで、硬直した思考から脱却し、より柔軟で多角的な戦略的意思決定が可能になるでしょう。孫子の教えは、現代の複雑な経営課題に対する羅針盤となり得ると言えます。