古典に学ぶ経営術

孫子の「九変」にみる、VUCA時代における戦略的意思決定

Tags: 孫子, 九変, VUCA, 戦略的意思決定, リスクマネジメント

導入:予測不能な時代と古典の知恵

現代ビジネス環境は、「VUCA」と呼ばれるように、Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)が増大しています。予見が困難な変化が常態化し、過去の成功パターンが通用しにくくなっています。このような状況下で、企業や組織が持続的な成功を収めるためには、従来の固定的な計画や戦略に固執せず、環境の変化に柔軟に対応できる戦略的意思決定が不可欠です。

このような現代の課題に対し、古代中国の兵法書である『孫子』は、今なお色褪せない普遍的な知恵を提供しています。特に「九変篇」に見られる思想は、変化への適応と柔軟な意思決定の重要性を説いており、現代のVUCA時代における戦略立案や実行に大きな示唆を与えてくれます。

本稿では、『孫子』の「九変」の概念を掘り下げ、それが現代ビジネスの予測不能な環境下での戦略的意思決定にどのように応用できるのかを考察します。

『孫子』の「九変」概念

『孫子』「九変篇」では、戦場における特定の状況下で、一般的な戦の原則や君命に必ずしも従わず、臨機応変に判断・行動することの重要性が説かれています。

原文(一部抜粋、一般的な訳文に基づく):

凡そ用兵の法は、地形に有九変有り。…故に、軍の利を知って九変を知らざる者は、未だ地利をば知らざるなり。九変の利を知って兵を用うるを知らざる者は、則ち士卒の欲をば得ざるなり。(九変篇)

この一節は、「地形には九種類の変化があり、これに応じた戦い方がある」とし、さらに「軍事的な有利な状況を知っていても、その九種類の変化に応じた対応(九変)を知らない者は、地形の真の利を知らない。九変の利を知っていても、それを実際の用兵に活かせない者は、兵士の潜在能力を引き出せない」と続きます。

ここでいう「九変」は、具体的な九つの状況や戦術を指すというよりも、様々な地形や状況に応じた「臨機応変な対応」そのものを強調していると解釈するのが一般的です。すなわち、特定の原則や命令に固執せず、現場の状況を正確に把握し、その瞬間に最も有利となる判断を下し、柔軟に行動することの重要性を説いています。

「九変篇」では、「塗(と)に由(よ)らざる有り、軍の攻むべからざる有り、城の攻むべからざる有り、地の争うべからざる有り、君命の受けざる有り」といった具体的な状況が挙げられており、これらはすべて、一般的な行動原則から逸脱してでも、その時の状況に応じて最適な判断を下すべきケースを示唆しています。

現代ビジネスへの「九変」の適用

『孫子』の「九変」の思想は、現代のVUCA環境下におけるビジネス戦略に直接的に関連付けられます。VUCA環境では、市場の動向、技術の進歩、競合の動き、顧客ニーズ、規制など、あらゆる要素が予測不能かつ複雑に変化します。このような状況で、事前に策定した固定的な長期計画や、画一的なオペレーションに固執することは、大きなリスクを伴います。

「九変」の考え方を現代ビジネスに適用すると、以下の点が重要になります。

  1. 状況判断に基づく柔軟な戦略: 市場環境や内部状況の変化を常にモニタリングし、予期せぬ事態が発生した際には、当初の計画や戦略を柔軟に見直し、最適な意思決定を行う必要があります。これは、単なる計画変更ではなく、状況の本質を捉えた上での大胆な方向転換や、複数の選択肢の中から最適な道を選ぶ判断を含みます。
  2. 固定観念からの脱却: 「九変」における「君命の受けざる有り」は、現代においては、過去の成功体験、業界の常識、あるいは社内の慣習といった「固定観念」に縛られず、状況に応じて最適な行動をとる重要性を示唆します。破壊的イノベーションへの対応や、新たなビジネスモデルの創出には、既存の枠組みを超えた思考が求められます。
  3. 迅速な意思決定と実行: 変化のスピードが速いVUCA環境では、状況判断から意思決定、そして実行までの時間軸が短くなります。「九変」のように、有利な状況を逃さず、あるいは不利な状況を回避するためには、迅速な対応力が不可欠です。これは、組織内の意思決定プロセスを迅速化することや、現場レベルでの自律的な判断権限の委譲とも関連します。
  4. リスクマネジメントと機会の捕捉: 予期せぬ変化はリスクであると同時に、新たな機会をもたらす可能性もあります。「九変」の思想は、状況変化を単なる脅威としてではなく、潜在的な機会として捉え、柔軟に対応することでその機会を捕捉することの重要性を示唆します。シナリオプランニングやリアルオプションのような考え方は、このリスクと機会の両面に対応するための現代的なアプローチと言えます。
  5. 組織の学習能力: 変化への対応力を高めるためには、組織が変化から学び、知識や経験を蓄積し、次の意思決定に活かす学習能力が不可欠です。「九変」を体現するためには、過去の成功や失敗を分析し、変化への対応パターンを組織内で共有する仕組みが重要になります。アジャイル開発における「検査と適応」の思想も、この学習能力に基づいた反復的な意思決定プロセスと捉えることができます。

事例紹介

歴史上の事例:ハンニバルとカンナの戦い

紀元前216年のカンナの戦いにおいて、カルタゴの将軍ハンニバルは、数で勝るローマ軍に対し、「包囲殲滅」という当時としては異例の戦術を用いました。ローマ軍の一般的な戦術や地形といった固定的な条件にとらわれず、自軍の特性と敵の動きを冷静に分析し、柔軟かつ大胆な戦術転換を行ったことは、「九変」の思想、すなわち状況に応じた臨機応変な判断と行動の重要性を示す歴史的な事例と言えるでしょう。

現代ビジネスの事例:パンデミック下の事業継続

2020年以降の新型コロナウイルスのパンデミックは、まさに企業が直面したVUCA環境の典型例です。多くの企業は、リモートワークへの移行、サプライチェーンの寸断への対応、顧客ニーズの急激な変化など、従来の計画では想定しえなかった事態への対応を迫られました。

この状況下で迅速に対応できた企業は、「九変」の思想を体現していたと言えます。例えば、レストラン事業者がデリバリー・テイクアウトに迅速に注力したり、アパレル企業が医療用ガウンの生産に切り替えたりといった対応は、従来の事業モデルや計画に固執せず、目の前の状況に応じて事業のあり方やリソース配分を柔軟かつ大胆に変更した事例です。これらの企業は、予期せぬ環境変化をリスクとしてだけでなく、事業構造を見直す機会としても捉え、迅速な意思決定と実行によって難局を乗り越えようとしました。

実践への示唆

ビジネスパーソンが日々の業務や戦略的意思決定において「九変」の思想を活かすためには、以下の点を意識することが有効です。

結論:変化を乗りこなすための古典の知恵

『孫子』の「九変」は、古代の戦場における臨機応変な対応の重要性を説いた概念ですが、その根底にある思想は、現代のVUCA時代におけるビジネス環境においても極めて有効です。予測不能な変化が常態化する中で、固定的な戦略や計画に固執するのではなく、常に状況を正確に判断し、柔軟かつ迅速に最適な意思決定を行うことの重要性を「九変」は教えてくれます。

古典の知恵を現代に活かすことは、単に過去の知識を学ぶことではありません。それは、時代を超えて通用する普遍的な原則を理解し、それを現代の複雑な課題解決に応用する思考法を身につけることです。「九変」の思想は、まさにその実践を促すものであり、VUCA時代を生き抜くための強力な羅針盤となり得るでしょう。変化を脅威としてのみ捉えるのではなく、それを機会と捉え、柔軟に対応していく姿勢こそが、現代ビジネスにおいて求められる「九変」の実践であると言えます。