孫子の「始計篇」に学ぶ、現代ビジネスにおける戦略的意思決定と事前準備の極意
はじめに:戦略立案の源流「始計篇」
孫子の兵法は、単なる戦術書にとどまらず、普遍的な戦略の原則を示唆する古典として、現代ビジネスにおいても多くの示唆を与えています。特に、その冒頭に位置する「始計篇」は、戦争を始める前の段階、すなわち戦略を立て、勝算を計算することの極めて重要な意味を説いています。現代ビジネスにおいて、競争環境は複雑かつ変化が速く、意思決定の成否が企業の命運を分けます。「始計篇」が示す「戦う前に勝つ」という思想は、まさに現代ビジネスにおける戦略的意思決定と周到な事前準備の重要性を改めて問いかけるものです。本稿では、「始計篇」の教えを紐解きながら、それが現代ビジネスの戦略立案、分析、そして最終的な意思決定にどのように応用できるのかを深く考察します。
「始計篇」が説く、勝敗を定める五事七計
「始計篇」において、孫子は戦争の勝敗が始まる前に定まっていると説き、それを事前に計算するための要素として「五事」と「七計」を挙げています。
孫子曰く、兵とは国の大事なり。死生の地、存亡の道なり。察せざるべからず。故にこれを計るに五事をもってし、これを比較するに七計をもってし、その情を索む。 一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法。 道とは、民を君と同意せしむるなり。故にこれと死すべく、これと生くべし。危を畏れず。 天とは、陰陽、寒暑、時制なり。 地とは、高低、遠近、険易、広狭、死生なり。 将とは、智、信、仁、勇、厳なり。 法とは、曲制、官道、主守なり。 およそこの五事は、将は知らざるべからず。これを知る者は勝ち、知らざる者は勝たず。 故にこれを比較するに七計をもってし、その情を索む。 曰く、主孰れか有道なる。将孰れか有能なる。天地孰れか得たる。法令孰れか行なわる。兵衆孰れか強き。士卒孰れか練れたる。賞罰孰れか明らか。 吾れこれによりて勝負を知るなり。 (現代語訳は意訳)
ここで述べられている「五事」とは、勝敗を左右する基本的な要素であり、「道」(国家の意志、人心の統一)、「天」(気候、時期)、「地」(地形、地理的条件)、「将」(指揮官の資質)、「法」(組織、規律)を指します。そして「七計」は、これらの要素を具体的に比較検討するための問いかけです。
この教えの核心は、戦いに臨む前にこれらの要素を徹底的に分析し、自己と敵の状況を比較することによって、戦わずして、あるいは戦う前から勝敗の趨勢を見極めることにあると言えます。
現代ビジネスにおける「五事七計」の応用
「五事七計」は、そのまま現代ビジネスの戦略策定プロセスに適用可能です。
- 「道」の現代的解釈: 企業の理念、ビジョン、組織文化、そして従業員のエンゲージメントに相当します。組織全体の方向性が統一され、従業員が共通の目的に向かって一丸となっている状態は、競争における強固な基盤となります。これは、現代の経営戦略における「パーパス経営」や「組織文化の醸成」の重要性と深く関連しています。
- 「天」の現代的解釈: 市場のトレンド、技術革新のタイミング、法規制の変化、経済状況などの外部環境要因です。これは、現代の戦略分析でよく用いられるPESTEL分析(政治 Political, 経済 Economic, 社会 Social, 技術 Technological, 環境 Environmental, 法 Legal)の一部を包含する概念と言えるでしょう。変化する外部環境を的確に捉え、戦略に反映させることが求められます。
- 「地」の現代的解釈: 市場の地理的特性、チャネル、サプライチェーン、物理的な拠点、あるいはオンラインにおけるポジショニングなど、ビジネスの「戦場」となる具体的な環境です。競合の状況、顧客の分布、インフラストラクチャなどもこれに含まれます。これは、ファイブフォース分析やバリューチェーン分析といったフレームワークを通じて理解されるべき領域と関連します。
- 「将」の現代的解釈: リーダーシップ、マネジメントチームの能力、特定のプロジェクトリーダーやチームリーダーの資質です。現代ビジネスにおいて、リーダーの洞察力、決断力、倫理観、そしてチームを鼓舞する力は、戦略遂行の成否に直結します。
- 「法」の現代的解釈: 組織構造、プロセス、ルール、評価システム、情報伝達の仕組みなど、組織を機能させるための内部体制です。ガバナンス、コンプライアンス、業務効率化の取り組みなどがこれに該当します。明確で効率的な組織体制は、戦略実行の基盤となります。
「七計」は、これらの「五事」について、自社と競合を比較し、優劣を判断するためのチェックリストと解釈できます。主導権はどちらにあるか、能力の高いリーダーはどちらにいるか、外部環境の変化をより有利に捉えているのはどちらか、組織体制はどちらが優れているか、組織の力、人材の質、評価制度の明確さなど、多角的な視点から徹底的に比較分析を行うことで、自社の相対的な強みと弱み、そして勝算の有無を事前に評価することが可能になります。これは現代ビジネスにおける競合分析、SWOT分析、ベンチマークといった活動の本質と共通しています。
事例にみる「始計篇」の思想
歴史上の多くの成功や失敗は、「始計篇」が説く事前準備と分析の重要性を裏付けています。
例えば、第二次世界大戦におけるノルマンディー上陸作戦は、徹底的な情報収集(天、地)、偽装作戦(虚実)、各部隊間の連携(法)、連合国軍のリーダーシップ(将)、そして民主主義陣営という大義(道)が複合的に機能した結果、劣勢からの反攻を成功させました。これは、「五事七計」の全てを網羅的に、かつ深く分析・準備した事例と言えます。
現代ビジネスにおいては、例えばスマートフォン市場におけるAppleの成功も、「始計篇」の思想で分析可能です。Appleは、単に革新的な製品(地、法の一部)を開発しただけでなく、強力なブランド力と顧客ロイヤルティ(道)、独自のビジネスモデル(法)、ジョブズというカリスマ的なリーダーシップ(将)、そしてApp Storeというプラットフォームを通じたエコシステム構築(地、法)を組み合わせました。競合他社(七計)と比較して、これらの要素において圧倒的な優位性を築いたことが、市場での勝利に繋がったと言えるでしょう。これは、単一の強みではなく、「五事」にわたる総合的な優位性を構築した事例です。
逆に、事前準備や環境分析を怠った企業の失敗事例も数多く存在します。市場の変化(天)や競合の動向(七計)を見誤ったり、自社の組織体制(法)やリーダーシップ(将)が戦略実行に見合わなかったりすることが、事業撤退や経営悪化の直接的な原因となることは少なくありません。
実践への示唆:ビジネスにおける「始計篇」活用法
「始計篇」の知恵を現代ビジネスに活かすためには、以下の点を意識することが重要です。
- 体系的な状況分析の習慣化: 新規事業の立ち上げ、重要な戦略的提携、あるいは大規模な組織変更など、重要な意思決定を行う際には、「五事」と「七計」をフレームワークとして活用し、自社と競合、そして外部環境を徹底的に分析するプロセスを組み込みます。SWOT分析やPESTEL分析などの現代的なツールと組み合わせて活用することで、より多角的な視点が得られます。
- 情報収集とインテリジェンスの重視: 正確で網羅的な情報なくして、的確な「七計」は不可能です。市場動向、競合情報、技術トレンド、法規制など、関連するあらゆる情報を継続的に収集し、分析する体制を構築することが不可欠です。
- 「戦う前に勝つ」マインドセット: 実行段階で苦労するのではなく、計画・準備段階で成功をほぼ確実にする、という意識を持つことが重要です。これは、単に楽観的に捉えるということではなく、考えられる全てのリスクと機会を事前に評価し、対策を講じるプロアクティブな姿勢を意味します。
- 組織内部の強化: 「道」「将」「法」は組織内部の要素です。どれほど外部環境分析が正確でも、組織がそれに合わせて迅速かつ的確に動けなければ意味がありません。ビジョンの浸透、リーダーシップの育成、効率的な組織体制の構築といった内部強化は、戦略実行の土台となります。
- 複数シナリオの検討: 「天」や「地」は不確実性を伴います。想定外の事態にも対応できるよう、ベストケース、ワーストケース、そして最も可能性の高いケースなど、複数のシナリオを事前に検討し、それぞれの対応策を準備しておくことが賢明です。
これらの活動は、特に経営企画、事業開発、戦略コンサルティングといった機能において、日々の業務の中核をなすべきものです。孫子の時代から変わらない戦略の原則は、現代においてもその有効性を失っていません。
結論:普遍的な知恵としての「始計篇」
孫子の「始計篇」は、戦争の開始前に勝敗の鍵があると喝破し、そのための具体的な分析視点「五事七計」を提示しました。この思想は、現代ビジネスにおける戦略的意思決定と事前準備のプロセスにそのまま適用可能です。市場環境、自社の強み・弱み、競合の状況などを「五事七計」の視点から徹底的に分析し、「戦う前に勝つ」ための万全の態勢を構築することの重要性を、改めて私たちに教えてくれます。
現代ビジネスの複雑な課題に取り組む経営者やビジネスパーソンにとって、「始計篇」は単なる歴史的な文献ではなく、実践的な戦略立案のための強力なガイドとなり得ます。古典の知恵を深く理解し、現代のツールやフレームワークと組み合わせることで、より確実性の高い意思決定と、持続的な競争優位性の確立を目指すことが可能となるでしょう。