孫子の「謀攻篇」にみる、現代ビジネスにおける「戦わずして勝つ」戦略論
現代ビジネスにおける戦略の新たな視点:孫子「謀攻篇」より
現代ビジネス環境は、グローバル化、技術革新、規制の変化などにより、予測困難で競争が激化しています。このような状況下で持続的な優位性を築くためには、単に競合に「勝つ」という直接的な視点だけでなく、より高次の戦略的思考が求められます。本稿では、兵法書『孫子』の「謀攻篇」に登場する「戦わずして勝つ」という概念に焦点を当て、それが現代ビジネス戦略においていかに重要な洞察を提供するかを考察します。
孫子の説く「戦わずして人の兵を屈する」
孫子の「謀攻篇」には、戦略の優先順位を示す有名な一節があります。
故に上兵は謀を伐つ。其の次は交を伐つ。其の次は兵を伐つ。其の下は城を攻む。(謀攻篇第三)
百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。(謀攻篇第三)
ここでの「上兵は謀を伐つ」とは、敵の戦略そのものを打ち破ること、「交を伐つ」は同盟や連携を阻止すること、「兵を伐つ」は実際の戦闘で敵の戦力を撃破すること、「城を攻む」は籠城している敵を攻めることです。孫子は、物理的な戦闘や城攻めは最もコストが高く、損害も大きい手段であり、最も優れた戦略は、敵が戦意を喪失するか、戦うことなく服従するよう仕向けること、すなわち「戦わずして人の兵を屈する」ことだと説いています。
この思想の根底にあるのは、リソース(兵力、物資、時間など)の消耗を最小限に抑えつつ、目的(勝利)を達成することへの徹底的な追求です。単に戦闘に勝利すること自体が目的ではなく、それを通じて得られる最終的な政治的・戦略的な成果こそが重要であるという視点が見られます。
現代ビジネスにおける「戦わずして勝つ」の応用
孫子の「戦わずして人の兵を屈する」という概念は、現代ビジネスにおける競争戦略にそのまま応用可能です。これは、直接的な市場シェア争いや価格競争といった「兵を伐つ」「城を攻む」に相当する消耗戦を避け、より上流かつ間接的な手段で優位性を確立することを目指す考え方と言えます。
現代ビジネスにおける「戦わずして勝つ」戦略は、以下のような形で具体化されます。
-
M&Aや戦略的提携による市場再編や優位性の確保(「交を伐つ」「謀を伐つ」に近い): 競合をM&Aにより統合したり、有力なプレイヤーと戦略的提携を結んだりすることで、市場構造そのものを有利に変革します。これにより、既存の競争ルールの外側で優位性を築き、直接的な消耗戦を回避することが可能になります。例えば、ある技術領域で複数のプレイヤーが激しい開発競争を行っている場合に、そのうちの二社が提携して共通規格の確立を目指すことは、「戦わずして勝つ」ための一手となり得ます。
-
ブランド力、技術的優位性、エコシステム構築による競合の無力化(「謀を伐つ」に近い): 強力なブランドイメージを確立したり、模倣困難な技術的な優位性を保持したり、あるいは顧客やパートナーを巻き込んだ強固なエコシステムを構築することは、競合が容易に追随できない参入障壁を築くことに繋がります。顧客が特定のブランドやプラットフォームから離れられない状態を作り出すことは、競合による直接的な顧客奪取という「戦闘」を無意味化させます。
-
業界標準化、プラットフォーム戦略によるデファクトスタンダードの獲得(「謀を伐つ」に近い): 特定の技術やビジネスモデルを業界標準として確立することは、その標準を採用しない競合を自動的に不利な立場に追いやる効果を持ちます。プラットフォーム戦略は、多くのユーザーと供給者を惹きつけることでネットワーク効果を生み出し、後発の競合が太刀打ちできない圧倒的な優位性を構築します。これは、物理的に敵を倒すのではなく、ゲームのルールそのものを自社有利に変えることで勝利する戦略です。
-
交渉力、情報戦略、規制への働きかけ(「謀を伐つ」「交を伐つ」に近い): サプライヤーや顧客との間で圧倒的な交渉力を持つこと、市場や競合に関する深いインテリジェンスを持つこと、さらには法規制や業界ルールに積極的に働きかけることなども、「戦わずして勝つ」ための重要な手段です。これらは直接的な競争に先立ち、有利な環境を構築するための活動です。
事例にみる「戦わずして勝つ」戦略
歴史上および現代ビジネスにおいて、「戦わずして勝つ」戦略の成功事例は数多く見られます。
-
歴史事例:秦の合従連衡策 春秋戦国時代の秦は、武力だけでなく外交戦略「連衡」を巧みに用い、他の六国(韓、魏、趙、楚、燕、斉)が連携して秦に対抗する「合従」策を阻止しました。六国を個別に分断し、同盟関係を崩すことで、大国の包囲網という「戦い」そのものを回避し、各国を個別に撃破、あるいは服従させて最終的に中華統一を達成しました。これは「交を伐つ」「謀を伐つ」の典型的な例と言えます。
-
現代ビジネス事例:Googleの検索エンジン Googleは、検索精度という技術的な優位性を確立し、圧倒的なシェアを獲得しました。この検索エンジンを基盤に広告ビジネスを展開し、その収益を元にGmail、YouTube、Androidなどのサービスを展開・買収(これもM&Aによる「戦わずして勝つ」一手)し、巨大なエコシステムを構築しました。検索エンジン領域での圧倒的なブランドと技術、エコシステムは、後発の競合が容易に覆せない「戦わずして勝つ」優位性の源泉となっています。彼らは検索精度という「上兵」を磨き、競合の「謀」を無力化しました。
-
現代ビジネス事例:Amazonのプラットフォーム戦略 Amazonは、小売業からスタートしましたが、単に商品を安く売る「兵を伐つ」競争だけでなく、サードパーティの出品者を呼び込むプラットフォーム戦略、AWSに代表されるクラウド事業、Prime会員プログラムによる顧客囲い込みなど、多角的な戦略を展開しました。これにより、小売業の枠を超えたエコシステムとネットワーク効果を構築し、多くの競合にとって真正面から戦うこと自体が極めて困難な存在となっています。彼らは「城を攻める」のではなく、新たな「謀」と「交」を築き上げました。
実践への示唆
孫子の「戦わずして勝つ」という思想は、現代ビジネス戦略を立案する上で以下の重要な示唆を与えます。
- 競争の定義を見直す: 競争とは、単に市場シェアを奪い合うことだけではありません。より上流で、自社にとって有利な市場構造やルール、顧客との関係性を構築することも重要な競争活動です。
- 自社の真の強み(無形資産)を特定する: ブランド力、技術力、顧客基盤、パートナーシップネットワーク、組織文化といった無形資産こそが、「戦わずして勝つ」ための決定的な要因となり得ます。これらの資産をどのように築き、活用するかが戦略の鍵となります。
- 戦略オプションを多様化する: 戦略を検討する際、自社単独での製品・サービス開発や直接的な販売促進といった「兵を動かす」手段だけでなく、M&A、提携、ライセンス、ロビー活動、標準化への関与など、「謀を伐つ」「交を伐つ」に資する多様な選択肢を検討リストに加える必要があります。
- 情報収集と分析を徹底する: 競合、市場、技術動向、規制環境などに関する深い洞察は、消耗戦を回避し、有利なポジションを築くための必須条件です。孫子が「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」と説いたように、情報こそが戦略の質を高めます。
- 長期的な視点を持つ: 「戦わずして勝つ」戦略は、短期的な成果よりも長期的な優位性構築を目指します。ブランド力やエコシステムは一朝一夕に築けるものではなく、粘り強い投資と時間が必要です。
結論
孫子の「謀攻篇」が説く「戦わずして勝つ」という概念は、単なる戦闘回避論ではなく、いかに最小のリソースで最大の結果を得るかという、効率的で高度な戦略思想です。これは現代ビジネスにおいて、直接的な競争を避け、M&A、提携、ブランド、技術、プラットフォームといった手段を通じて、より高次の、持続可能な優位性を構築することの重要性を示唆しています。古典の普遍的な知恵に学ぶことは、現代の複雑なビジネス課題に対する、より深く、より本質的な解を見出すための重要な羅針盤となり得ると言えるでしょう。