貞観政要に学ぶ、現代ビジネスの「創業」と「守成」の戦略論
現代ビジネスにおける「創業」と「守成」の普遍的課題
新たな事業を立ち上げ、ゼロからイチを生み出す「創業」は、多くのエネルギーとビジョンを必要とします。一方、事業を維持・発展させ、競争環境の中で組織を継続させていく「守成」は、異なる種類の課題を突きつけます。現代ビジネスにおいても、これらのフェーズは企業の存続と成長にとって極めて重要です。
約1400年前、唐の太宗と臣下たちの対話録である『貞観政要』には、この「創業」と「守成」に関する洞察が記されています。特に、太宗が「創業と守成、いずれか難き」と問いかけた箇所は有名であり、これに対する臣下の応答には、現代の経営にも通じる深遠な知恵が含まれています。本稿では、『貞観政要』のこの議論を紐解き、現代ビジネスにおける創業期と守成期、それぞれの戦略とリーダーシップについて考察します。
『貞観政要』にみる「創業易く守成難し」
『貞観政要』巻第二「創業」には、太宗と宰相の房玄齢、魏徴の対話が記されています。
太宗問侍臣曰:「創業與守成孰難?」 (太宗、侍臣に問うて曰く、「創業と守成といずれか難き?」と)
この問いに対し、房玄齢は乱れた世を平定し新たな王朝を築く「創業」を難しとし、魏徴はすでに安定した世を維持する「守成」を難しとしました。
房玄齡曰:「草昧之初、羣雄競起、攻城略地、殺人盈野。非湯武之聖、文王之徳、不能平。此創業之難也。」 魏徵曰:「自古帝王、莫不以儉約爲守成之本。然承平之後、百姓既安、徭役既輕、稍用驕奢、危亡無日。此守成之難也。」 (房玄齢曰く、「草昧の初め、群雄競い起ち、城を攻め地を略し、殺して野に盈つ。湯武の聖、文王の徳に非ざれば、平らかにすること能わず。此れ創業の難きなり。」と 魏徴曰く、「古より帝王、儉約を以て守成の本と爲さざる莫し。然るに承平の後、百姓既に安んじ、徭役既に軽く、稍用驕奢なれば、危亡日無し。此れ守成の難きなり。」と)
房玄齢は、創業期がいかに混沌とし、困難な状況から秩序を築く必要があるかを述べ、その難しさを説きました。一方、魏徴は、平穏な時代が続くと人々が油断し、奢りが生じ、それが体制を危うくするという「守成」の難しさを強調しました。
最終的に太宗は、房玄齢の創業の苦労は自身の経験から理解できるとしつつ、魏徴の守成の難しさをより深く認識し、臣下と共に守成の道を追求していくことを誓いました。この議論は、異なる立場からの真摯な意見交換がいかに重要かを示唆すると同時に、「守成」という状態が内包するリスクへの鋭い洞察を含んでいます。
現代ビジネスにおける「創業」と「守成」の戦略的課題
この古典的な議論は、現代ビジネスのステージ論にも多くの示唆を与えます。
創業期(スタートアップ期)
創業期は、まさに「草昧之初、羣雄競起」の時代です。限られたリソース、不確実性の高い市場、確立されていない組織の中で、製品・サービスを開発し、顧客を獲得し、事業モデルを確立する必要があります。
このフェーズで求められる戦略は、スピード、柔軟性、そして大胆な意思決定です。市場のニーズを素早く捉え、仮説検証を繰り返し、ピボットを恐れない姿勢が重要となります。リーダーシップとしては、強烈なビジョンを示し、チームを鼓舞し、困難な状況を突破していく力が不可欠です。フレームワークで言えば、リーンスタートアップやアジャイル開発のような考え方がこのフェーズに適しています。
『貞観政要』の文脈で言えば、この時期のリーダーは、房玄齢が述べたように、混乱の中で秩序を築くための「聖」や「徳」、すなわち卓越した能力と求心力を持つことが求められます。
守成期(成長期・成熟期)
事業が軌道に乗り、組織が拡大し、安定してきた守成期は、魏徴が指摘したような特有の難しさがあります。「百姓既安」のように、組織内のオペレーションがルーティン化し、市場でのポジションが確立されることで、一種の「安逸」が生じやすくなります。
このフェーズで直面するのは、変化への対応力低下、組織の硬直化、イノベーションの停滞、新たな競合の出現、内部不正やコンプライアンスリスクの増大といった課題です。「稍用驕奢」のように、過去の成功体験に囚われたり、非効率な慣習が温存されたりするリスクが高まります。
守成期に求められる戦略は、効率化と同時に、自己変革とイノベーションの継続です。既存事業の最適化を図りつつ、常に市場の変化を監視し、新しい事業の芽を育て、組織文化を活性化させる必要があります。リーダーシップとしては、規律を保ちつつも、多様な意見に耳を傾け(納諫)、未来への投資を怠らず、組織に緊張感と変化を促す力が求められます。魏徴が「儉約を以て守成の本と爲す」と述べたように、無駄を省き、本質を見失わない堅実さが基礎となりますが、それに加えて、安住せず積極的に変化を取り込む姿勢が現代においてはより重要です。
事例にみる「創業」と「守成」の成功と失敗
歴史上の王朝を見れば、創業期には傑出したリーダーシップで国を興しながらも、守成期に奢りや油断から国を傾かせた例は枚挙にいとまがありません。唐自身も、貞観の治の繁栄の後、安史の乱を経て衰退の道を辿りました。
現代ビジネスにおいても、同様の事例が見られます。創業期には破壊的なイノベーションで市場を席巻した企業が、成熟期に入ると過去の成功モデルに固執し、新たな技術や市場の変化に対応できず、後発企業にシェアを奪われるケースです。例えば、かつてのデジタルカメラ市場や携帯電話市場での主要プレイヤーが、スマートフォンの登場といった技術革新に対応しきれずに苦境に陥った事例などが挙げられます。
逆に、創業期に成功を収めた後も、継続的なイノベーションや組織文化の刷新によって守成の難しさを乗り越え、長期にわたって成長を続ける企業も存在します。これは、単に既存事業を守るだけでなく、常に「第二の創業」とも言えるような取り組みを続け、組織全体が変化に適応し続ける仕組みを持っていることによります。
読者が自身のビジネスに活かすための示唆
貞観政要の議論から、現代のビジネスパーソンが得られる示唆は多岐にわたります。
- 現状のステージ認識: 自身や所属する組織、あるいは担当する事業が、創業期的な性質を持っているのか、それとも守成期的な性質を持っているのかを正確に認識することが第一歩です。混合している場合も多くあります。
- ステージに応じた戦略とリーダーシップ: それぞれのステージで求められる戦略、組織構造、意思決定のスピード、リーダーシップスタイルは異なります。現状認識に基づき、意図的にアプローチを変える必要があります。
- 守成期におけるリスク管理: 守成期は安定しているように見えて、内部から腐敗したり、外部環境の変化を見過ごしたりするリスクが潜在します。魏徴が指摘したように、奢りや油断を排し、常に危機感を持ち、変化の兆候を捉える感度を高く保つことが重要です。コンプライアンス体制の強化や、定期的な組織・戦略の見直しも不可欠です。
- イノベーションの継続: 守成期こそ、創業期のような変革の精神を忘れず、イノベーションに投資し続けることが、長期的な存続には不可欠です。社内ベンチャー制度やM&Aなども、外部の「創業」の力を取り込む手段となり得ます。
- 「納諫」の精神: 太宗が魏徴の意見に耳を傾けたように、リーダーは自身とは異なる視点や耳の痛い意見にも真摯に耳を傾ける姿勢が重要です。組織の硬直化を防ぎ、多角的な視点から意思決定を行うためには、建設的なフィードバックを奨励する文化が求められます。
結論:古典に学ぶ、成長と維持のバランス
『貞観政要』における創業と守成の議論は、時代を超えてビジネスリーダーに示唆を与え続けます。創業の情熱と守成の堅実さ、そして変化への適応力をいかにバランスさせるかが、現代ビジネスにおいても企業の持続的な成功を左右する鍵となります。
古典に学ぶ知恵は、特定の技術やトレンドに依存しない、人間の本質や組織のダイナミズムに関する普遍的な洞察を提供してくれます。貞観政要に触れることで、現代ビジネスの課題をより深く理解し、より適切な戦略とリーダーシップを発揮するための一助となるはずです。